
japanese foodライフ
一九八七年十月に、五年ぶりに日本に帰ってきて、当時、私がいちばん驚いたのは、紙幣がすっかり変わってしまったことだった。
アメリカに赴任する前に使い慣れていたS太子の一万円札はいつの間にかFyに替わっていた。
千円札もIを使う人はもはや誰もおらず、周りの誰もがNSを使っていた。
「これがお札なのか」まるで異国の地に迷い込んだような錯覚に襲われたのが、今でも忘れられない。
変わったのは紙幣ばかりではなかった。
五年ぶりの東京はずいぶんと締麗になっていた。
車道と歩道の間には植栽が整備され、皇居のお堀の周りも見違えるように美しくなっていた。
私はNK銀の社宅に住むこととなったが、五年前と違ってトイレは洋式(着座式)になり、狭い社宅の洗面所では蛇口をひねるとお湯が出てくるようになっていた。
もう冷たい水に我慢しながら、毎朝かじかむ手を洗うこともなくなったのだ。
すでに東京の地価はどんどんと急ピッチで上がってしまっていた。
私は「このままでは一生、社宅や借家住まいかもしれない」と、半ばあきらめの境地に達したものだった。
「五年間、米国に勤務することがなければ、日本にいて、住宅価格が安いうちにローンを組んで、住宅を手配することが可能だったのに・・・。
米国に駐在している間に土地の値段はこんなに上がってしまい、もう一生、自分は住宅など手にすることはできないだろう」
こんなふうに思っていたのだ。
それでも日本の金融機関は絶好調で、私の勤めるNK銀は、米国の格付け機関であるSAPとMの両社から、最高級の格付けであるトリプルAを獲得していた。
両方の格付け機関からトリプルAを獲得することは、シックスA(六つのA)といわれていたが、シックスAの金融機関は、当時、世界でもNK銀のほかに三社しかなく、日本の金融機関の好調ぶりが窺えた。
アメリカには、日本の自動車会社が次々と工場進出するようになっていった。
Hd、Nに続き、Tもケンタッキー州への工場進出を決め、翌一九八八年の生産開始へ向けて着々と準備を進めていたところであった。
このような時代に起きたのがブラックマンデーであったのだ。
一九八七年十月十九日、月曜日。
ニューヨーク株式市場は前週末に比して五○八ドルの下落を記録した。
下落率にして一三・六%。
これは一九二九年の世界恐慌や今回のRm・ショックをも上回る歴史上最大の下落率となった。
ニューヨーク市場の下落は、翌日のアジア各国の市場にも連鎖し、日経平均株価は、三八二一六円安となった。
下落率にして一四・九%である。
さらにこの衝撃はヨ−ロッパの各市場へも波及し、株価暴落は世界的規模となって各国の株式市場に襲いかかったのである。
しかし、このときの株式市場の激震は、その後の金融当局による政策金利の引き下げやプログラム取引の一部規制などの対応も奏効して、幸いにも実体経済へはさほど甚大な被害をもたらすことなくして終馬した。
一九八七年の米国の失業率は六・二%であり、前年の七・○%よりも低かった。
また翌年、一九八八年の失業率も五・五%であった(米国雇用統計)。
一九二九年から始まった大恐慌の時には、失業率はとめどもなく上昇し続け、ピーク時には二四・九%にまで達した(一九三二一年)が、ブラックマンデーの時には、そのようなことにはいたらなかったのである。
今日では、一九八七年のブラックマンデーの背景として、当時、アメリカの貿易収支の赤字幅が予想以上に膨らんでいたことや、一九八五年のプラザ合意後のドル安打開のためにドル金利が引き上げられる観測が広がっていたことなどが挙げられている。
この種の複合的要因が株式市場の暴落に結びついていったと考えられているのだ。
また、当時普及し始めていたコンピューターによるプログラム取引が、ある程度株価が下落すると損失を最小限にしようと、自動的に売り注文を出すため、売りが売りを呼ぶ負の連鎖が起きたことも、大きな原因の一つだと考えられている。
さらに加えて、このニヵ月前に、F(連邦準備制度理事会)の議長がPBからアラン・GSへと引き継がれていたことも、市場心理を不安定なものにしていたといえるだろう。
いずれにせよ、ブラックマンデーの前営業日にあたる十月十六日には一三四六ドルあったダウ平均株価は、翌営業日である十月十九日のブラックマンデーには一七三八ドルまで下落した。
しかしその日から七○日後の十二月二十四日には、ダウ平均株価は一九九九ドルまでに回復したのである。
七○日間を経たところでの下落率は、暴落前に比して二%であったのだ。
それが今回のRm・ショックではRm破綻が明らかになる前の九月十二日から七○日後の十一月二十一日まで下落率は三○%に及ぶ(二四二一ドル←八○四六ドル)。
ブラックマンデーは単一の営業日の下落率としては一三・六%を記録し、過去最大であるが、これはコンピューターによるプログラム・トレードが活発であったという技術的な側面が大きく影響していたからであり、二〜三カ月間というスパンで考えれば、それほど大した下落ではなかったのだ。
今回のRm・ショックのほうが、はるかに衝撃度の大きいものであることは明白である。
ITバブル崩壊と比べると……それでは、二○○○年のITバブル崩壊はどうだったのだろうか。
一九六○年代から八○年代にかけて開発されたコンピューターのプログラムは、ハードウェアのメモリ関連の負担を軽減することを目的として、年号を下二桁のみで表わすものが多かった。
当時のハードの技術ではメモリは高価なものだったのだ。
その結果、二○○○年を前にして、一部のプログラムではコンピューターが二○○○年を一九○○年とみなしてしまう恐れがある、と指摘され始めた。
さらに二○○○年は閏年であったが、コンピューターのプログラム上、(1)その年が四で割り切れる年は閏年とする、(2)しかしその年が一○○で割り切れる年は閏年としない、とした二つのルールしか適用しなかったプログラムも多くあるのではないか、ということも恐れられ始めたのだ。
すなわちプログラムの開発者が、(3)その年が西暦二○○○年のように、四○○で割り切れる年は、(2)のルールにもかかわらず、閏年とする、とのルールを忘れてしまったというわけだ。
このため二○○○年一月一日と、二○○○年二月二十九日の両日で、それぞれ異なった理由でコンピューターが誤作動を起こすことが懸念され始めた。
そしてこのことを事前に防ぐために、世界中で多額の金を使ってプログラムの修正や更新が行なわれるようになったのである。
当然のことながら、プログラムの検証や修正・更新に係わる多額のシステム開発投資は、一九九八年頃から二○○○年にかけて集中的に行なわれた。
そしてこれらの投資は、二○○○年二月二十九日を無事に迎えれば、その時点で、もはや必要とされなくなる。
すなわち、二○○○年も三月に入ると、この種の投資は、一転してぴたりと止まってしまったのである。
私は当時、JMに勤務していたが、社内では「Y2Kプロジェクト・チーム」(Kは1000を表わし、Yは年を意味する、すなわち二○○○年問題プロジェクト・チームの意味である)を組成して、この問題に対応していた。
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